Nonfiction Story ~ Working days and yet ... ~

My dogma and bias - 独断と偏見

Historic of "Tour de France"

大学の図書館においてあった本を参考に作成してみた。
ちなみに、貸し出し期限が切れているので、後で私はペナルティを食らう…。(滝汗)


ちなみに、はてなでは、ツール・ド・フランスについてかなり詳しく書かれている。驚きだ。
keyword:ツール・ド・フランス


そして、今回の参考文献は、

ツール・ド・フランス―栄光のマイヨ・ジョーヌを求めて

ツール・ド・フランス―栄光のマイヨ・ジョーヌを求めて

  • 作者: 北中康文
  • 出版社/メーカー: スーパーエディション
  • 発売日: 1988/12
  • メディア: 大型本

だ。


まぁ、大学から借りた本はカバーがありませんでした。
けど…20年前の著書でありながら、アマゾンに画像がちゃんとあるのは奇跡に近いって。(驚)



目次

p.1 言葉
p.2〜5 出版に向けてのコメント
p.6〜7 ツールの歴史
p.8〜11 ツールが生んだ英雄達
p.12〜16 ベルナール・イノのインタビュー
p.18〜53 73e Le Tour de France(1986年大会のフォト) : オー・ド・セーヌ(フランス)〜シャンゼリゼ
p.54〜93 74e Le Tour de France(1987年大会のフォト) : ベルリン(東ドイツ)〜シャンゼリゼ
p.94〜176 75e Le Tour de France(1988年大会のフォト) : ロアールアトランティク74(フランス)〜シャンゼリゼ
p.177 あとがき
p.181〜190 ツールの記録
p.192 書籍の詳細

以下、文献からです。

男たちは走り続け、鬼となり、神となり、ゴールで人に戻った。


最初のページの言葉から。

その後に、当時のパリ市長のジャック・シラク氏(シラク大統領)、駐日フランス大使のベルナール・ドラン氏、「レキップ」名誉会長のジャック・ゴデ氏のコメントが、それぞれ、フランス語と日本語(訳)で書かれていた。
また、各人のサインも付いていた。(驚)

p.6

自転車専門のスポーツ新聞「ル・ヴェロ」と「ロト・ヴェロ」が相次いで創刊された。が、1902年、「ヴェロ(自転車)」という文字の使用について、ル・ヴェロが争いに勝ち、ロトの方は販売部数が落ち込んだ。

    • ル・ヴェロ:8万部
    • ロト・ヴェロ:2万部

当時、ル・ヴェロはパリ〜ブレスト往復1200kmというレースを開催していたが、ロトはフランス1周レースを考え付き、1903年、その第1回大会が開催された。


1903年1月19日、「フランス1周、世界最大のレース。賞金2万フラン」とロトは紙面に掲載した。
参加者は60名、2428km、6区間(エタップ)。7月1日〜7月18日に渡って戦い抜かれた。
当時のフランスはほとんど未舗装で、エタップの平均距離は400kmと近代ツールの倍もあった。それを前近代的な重い自転車で、昼夜区別無く丸2日走り続けるものだった。


マイヨ・ジョーヌが黄色い理由は、ロトの紙面が黄色かったからです。
優勝者に黄色いジャージを贈呈するのは最初から行われてました。



1904年のツール第2回。
トリビアでは、ツール・ド・フランスの初代チャンピオンは翌年の大会で自転車ごと列車に乗り失格になったというのがあった。
こちらのサイトにはそのトリビアが載っているので、参考にどうぞ。
で、この大会はル・ヴェロ側の妨害工作や、地元選手を何としても勝たせようとする愛郷心からのレース阻害が表面化した。
コースが妨害されたり、暴漢が選手を襲ったり、路上にガラスの破片や釘が撒かれたり…。
んで、選手側にも競技規則に違反する者が出たわけだが、この大会は結局、1位〜4位の選手が失格になって、5位の選手が優勝となった。


1905年、ツール第3回は行われた。
が、この前に主催側は「ツール中止宣言」をしていたわけだが、結局行われた。
そして、UVF(フランス自転車競技連盟の前身)の協力によって競技規則が改善、スポーツ競技としてツールは定着していった。



p.7

  • ツールとエキップ

エキップとは、ツールに参加するチームを指す。そして、現在は10人前後で構成されている。が、エキップのルールは、何度も変えられてきた。

1912 マーク別チームのツール参戦を許可する
ほとんどが自転車メーカーやパーツメーカーを中心として編成したチームで、アルシヨン、プジョー、オト・モトなど……アルシヨンは当時最強を誇った。

第1次大戦後 チームのメンバー募集は国境を越えて拡がり、1919年以降、ツール優勝者の国籍は多様化する。

1920年代 自社チームを優勝させるために、メーカーの策略や他チームの選手を巻き込んだ不正行為などが目立ち始めた。

1930年 マーク別チーム制から国別チーム制を採用
参加選手の自転車はロトが調達する1メーカーのものに限られる。また、選手の諸経費、報酬、ホテル、食事、マッサージなどの全ての費用はロトがまかなう。これは革命的なツールのイメージチェンジだった。
そして、企業側も1929年の世界恐慌により、経費節約がうたわれ、このアイデアを受け入れる。その後、ツールは黄金時代を迎え、国別チーム制は1961年まで続けられた。

1930年代 キャラバン隊の充実
国別チームの選手の全経費をロトが負担することになった為、新たな資金源が必要になり、その収入の大半を企業からの広告料に求めるようになる。宣伝カーはこれまで選手の後ろを走ってたが、30年代以降は選手集団の前を走るようになった。今もこれは続けられている。

1962年 スポンサーのマーク別チーム制に戻る
自転車パーツ以外の一般企業も参加するようになった。

1967〜68年 一時的に国別チーム制に戻す

現在 完全なマーク別チーム制
世界中の色々な企業がエキップのスポンサーになっている。
  • ツールが生んだ英雄達

以下の選手が紹介されてました。

フィリップ・ティス(Philippe Thys)
ジーノ・バルタリ(Gino Bartali)
ファウスト・コッピ(Fausto Coppi)
ルイゾン・ボベ(Louison Bobet)
ジャック・アンクティル(Jacques Anquetil)
エディ・メルクス(Eddy Merckx)
ベルナール・イノー(Bernard Hinault)

以下は9月に福岡に帰郷してから書きたいと思います。