Nonfiction Story ~ Working days and yet ... ~

My dogma and bias - 独断と偏見

高校野球の季節

タイトルの通り、ほとんどの都道府県で甲子園の予選が始まりました。
沖縄はもう代表決まったような気が。
あそこはいつも早い。


私は何度も日記で書いたとおり、石川県民です。
今は大学が福岡県にあるので、福岡県の某所に住んでいます。


石川と甲子園を繋げるもの…それは星稜高校。(謎)
甲子園では2つの伝説が記録されている。(明と暗)


サイト検索で抜粋・編集。文がつながってないかも…。(おぃ)

1 箕島高校 vs 星稜高校、延長18回の激闘
(参考サイト http://page.freett.com/TM117/meishobu1.htm )

高校野球史上最大の試合といえば何か?」という問いかけをされたら数多くの高校野球ファンは、あの箕島と星稜の延長18回の死闘を挙げるかと思う。
 箕島高校という名はかつては全国の高校野球ファンを魅了した全国屈指の強豪として現在も思いを寄せているファンも全国に数多いことと思う。
 箕島高校は名将尾藤監督の下、昭和40年代から50年代にかけて強豪の名をほしいままにしたチームである。

 昭和43年の春に初出場を果たした時は元西武ライオンズのエースとして活躍し、また監督も歴任した東尾修投手を擁してベスト4という成績を挙げ、翌々年の45年の選抜では三沢高校太田幸司についで甲子園のアイドルといわれた島本講平をエースに堂々たる優勝を成し遂げた。その後、昭和52年春に優勝、昭和53年春にはベスト4、昭和54年春・夏連続優勝と当時の高校野球界を常にリードした強豪であった。
 しかしながらこの箕島高校、あくまでスコアだけの判断なのだが、群を抜いて強力なチームをもって相手チームを圧倒したわけではないようで、接戦を征した試合も少なくない。また、2桁得点での勝利というのも、昭和52年春の対豊見城戦(10-0)と昭和54年春の対下関商業戦(10-4)のわずか2試合だけである。
 他に高校野球の強豪といえば、やまびこ打線の池田高校、KKコンビのPL学園、松坂の横浜高校、そして最近では豪打の智弁和歌山と思い浮かぶのだが、これらのチームについてそれぞれ感じられることは、ともに圧倒的なチーム力をもって相手チームに圧勝する試合を数多く行ってきたことであると思う。

 しかし、不思議なことにこの箕島高校はあれだけ強豪の名をほしいままにしたチ−ムにしては、前述したチームと比較してもそれほど強力なチームではないという印象を受けるのである。
 強豪とはいえ強力ではないという面では神がかり的な要素も踏まえてきたチームであったようにも思える。当時、他のチームには圧勝できてもなぜか箕島には勝てなかったというチームも数多くあったように思えるが、最終的には勝利するという箕島高校の「尾藤マジック」ともいえる采配が、絶えずチームの礎になっていたように思える。

 その箕島高校が「高校野球史上最大の試合」ともいえるあの星稜との延長18回に渡る死闘を繰り広げたのが昭和54年、夏の全国高校野球選手権大会の3回戦のことであった。それまでの地域選抜での夏の大会から完全な1県1校での出場となったのも記念大会であったこの第60回大会からだったが、やはりこの時も石井毅(のち西武)、嶋田宗彦(のち阪神)のバッテリーで優勝候補の呼び声が高く、話題を独占していたのが箕島高校だった。
 しかしそんな中でこの王者箕島に昂然と立ち向かうチームが出現した。名将山下監督率いる北陸の雄、石川県代表の星稜高校である。星稜はエース堅田外司昭を擁して初戦は京都の宇治高校(現立命館宇治)を8-0と圧倒。そしてこの箕島戦に望んだわけである。当時としても好チームとはいえ雪国勢の星稜は王者箕島には苦戦するとの予想が大方だったように思えるのだが、試合は大投手戦へと向かっていったのである…。

 まず最初に試合が動いたのは4回、星稜が好投手箕島石井から1点を先取すると、負けじと箕島もその裏星稜から1点を奪い同点とし、それ以降、9回まで無得点のままで試合は延長戦へと突入。
 延長10回、11回と無得点で試合が続いたが、延長12回に再び試合が動く。星稜高校の6番の音重鎮(のち中日など)がヒットがを放ち、7番山下靖がファーボールを選んで星稜が1死1-2塁とした。続く8番石黒豊は平凡なセカンドゴロを放ち、併殺に終わるかと思いきやこの球を箕島二塁手の上野山が痛恨のトンネル。星稜・音が本塁に帰り1点を勝ち越したのである。その裏箕島は2者連続して倒れ、絶体絶命のピンチ。迎える箕島の打者はトップバッターの嶋田宗彦であった。このとき嶋田が尾藤監督に「ホームランを狙って打ってくる」と明言したのは有名な話であるが、星稜堅田が嶋田に投じた3球目がなんとレフトのラッキーゾーンに入るホームランとなってしまったのである。
 有言実行という言葉があるが、実際嶋田選手も驚きをかくせなかった一発であったようにも思われる。
 延長14回裏の箕島の攻撃、箕島森川がシングルヒット、その後犠打にて森川が2塁に進み3塁に盗塁をきめ、1死3塁と箕島絶好のチャンスとなった。だが、ここで意表をついたのが星稜のサード若狭の隠し球であった。森川をタッチアウトに切ってとり、この回も両者無得点となった。

 そして試合が再び動いたのが延長16回。星稜の攻撃であるが、星稜の4番川井のデッドボールと5番堅田のセカンドへの強襲内野安打、続く6番音がピッチャーゴロ。2死1-3塁として、7番山下がライト前にヒット。星稜が1点を勝ち越すに至った。
 16回裏、箕島の攻撃である。4番北野、5番上野が堅田の前に連続して打ち取られ、この時点でこの試合を見守っていた全国の高校野球ファンは、王者箕島の春夏連覇の夢は潰えると感じたに違いなかっただろう。続く箕島のバッターは、延長14回に隠し球であえなくアウトになってしまった森川であった。堅田の投じた初球を森川は1塁ファウルグラウンドに高々と打ち上げた。星稜1塁手の加藤は森川のファールフライを今まさに取りに行かんとファールグラウンドの落下点にグラブを構えた。
 しかしその時、またも信じられない光景が起こった。ファールグラウンドに貼られた人工芝に、加藤は不覚にも足を取られてしまったのである。加藤は転倒し、森川の放ったフライはファールグラウンドに落下した。試合は続行することになったが、それでも星稜の優位な立場は揺ぎ無い。しかし奇跡は再び起こった。堅田が森川に投じた4球目、その球はなんと甲子園の左中間スタンドへの大飛球となってしまったのである。まさに奇跡、箕島野球に敗北はないといったあらわれがまざまざと見せつけられた。

 延長18回表、星稜は2死満塁と最後のチャンスを作るもあえなく凡退、再試合をかけて最後の守りに入った。しかし堅田の投球は限界に達していた。連続ファーボールで1死1-2塁とし、箕島上野にレフト前のタイムリー。4-3と箕島がサヨナラ勝ちを収めた。3時間50分という壮大な試合の中で、星稜堅田は208球を投じながらも王者箕島を倒すことは夢に終わってしまったのだった。


2 明徳義塾高校 vs 星稜高校、社会問題までなった松井連続5敬遠
(参考サイト http://www.webmie.or.jp/~m-yama/col/columnsikyu.htm )

 1992年8月16日、夏の甲子園で世間を揺るがす事件は起こった。
 松井秀喜は、石川県の星稜高校の大型3塁手として4番を任されており、これまで高校通算60本塁打を記録していた。1年夏の甲子園初出場から数えて4度目の甲子園出場。1回戦の長岡向陵高校戦(新潟)は11-0で軽く突破している。

 2回戦は高知県明徳義塾高校戦である。明徳義塾は、星稜高校戦が初戦だった。
 明徳義塾の馬渕史郎監督は、星稜高校の超高校級スラッガー松井を全打席歩かせることを指示。もちろん、チームを勝たせるためである。
 夏の高校野球は1度負けたら終わってしまうトーナメント。次の試合をするためには何としても勝たなければならない。

 試合は1点を争う好ゲームになった。
 松井は、第1打席から第5打席までの20球、すべて敬遠のボールを投げられ、5打席連続四球で1塁へ歩いた。たとえランナーなしの場面でも、松井は勝負してもらえなかった。5打席とも表情を変えず、1塁へ向かった松井の紳士的な態度は、今でも語り草になっている。
 だが、この松井への四球攻撃に対し、甲子園の観客はブーイングを浴びせ、メガホンやゴミを投げ入れて抗議した。

 松井は全打席出塁してチャンスを作ったものの、硬くなった星稜高校の5番バッター以降は、明徳の河野和洋投手を打ち崩すことができず、2-3で敗れた。

 馬渕監督の目論見通り、明徳義塾は松井封じに成功、3回戦に駒を進めたのだ。
 勝った明徳義塾高校が校歌を斉唱している間中、観客は容赦ない「帰れ」コールを浴びせ、校歌の声はかき消された。
 しかし、馬渕監督の目論見が外れたのは周りの反応だろう。試合後の馬渕監督の談話には、それがよく表れている。自らの指示によって、明徳の選手に嫌な思いをさせてしまったことに心を痛めていたのである。

 更に、高校野球で前代未聞の5打席連続敬遠が生んだ波紋は、まだ収まらなかった。明徳義塾の宿舎には1000件を超える抗議の電話が殺到し、高野連牧野直隆会長が異例の記者会見を開いて、明徳の四球攻撃に苦言を呈するという事態にまで発展した。このため、松井5打席連続敬遠事件は全国各地で物議を醸し、社会問題化していった。
 そして、ついには教育のあり方にまで議論が及び、生徒達に松井敬遠の是非についての作文まで書かせる高校もあったという。

1番は年代的にも知らないです。
2番は一応知ってましたが。


それにしても、敬遠事件がこんなふうにまで発展していたのは知りませんでした。
ディベートでもさせたら結構良かっただろうな。
ネタとしては。